マンダレーからヤンゴン経由でパアンへ |
3月27日、マンダレー18時発のエアコン付夜行バスでヤンゴン方面へ出発。運賃は1万200チャット。車両はボディに日本語を書いていなかったが、韓国製だったかもしれない。座席の幅がさほどなく隣の乗客と時々接触するのが不快だが、リクライニングで多少眠ることも可能だった。出発して30分ほどで日が暮れ、周りの様子はよくわからなかったが、道路状況はおおむね良好だった印象。途中休憩2回で合計60分。深夜1時ごろ、マンダレーとヤンゴンの中間にある大規模なレストエリアに入った。ヤンゴンとマンダレーの両方向からやってくる長距離バスが続々と出入りして賑やかだった。
このときの目標は「東西経済回廊」沿いの国境であるミャワディへなるべく近づくことだった。ヤンゴンの旅行店の情報ではミャワディ方向も外国人は渡航が許されていないと聞いていたが、その手間のカイン州都のパアンHpa-An(ヤンゴンから南東へ約300km)までひとまず行ってみることにした。パアンへ行くためにはヤンゴンの手前約70kmにあるバゴー(ペグー)で下車し、南方向へバスを乗り換えるのが近道なので、バスの車掌にはバゴーでの下車を希望し、事前に「バゴー」と訴えたつもりだったが、英語が通じなかったのであろう、うたた寝をしている間にヤンゴンに着いてしまった。
翌3月28日の朝5時半ごろ、アウンミンガラー・バスセンターに到着。バスターミナル内の敷地は広く、あらゆる方向から発着するバスであふれていて混沌そのもの。「パアン?」と周りの人に聞きまわりつつ、長距離バスの発着地点から近距離バスの発着地点まで300mほど汗をかきながら歩いた。何とかパアン行きバスの停車場所にたどり着き、7時発のバスのチケットを9,000チャットで購入した。エアコンなしの富士急観光バスの中古だった。筆者は早めにチケットを買ったので前列に座ったが、あとから乗客が増え、ほぼ満席となって発車した(写真)。10時ごろに食事休憩があり、乗り合わせていた数人の僧侶はこのときに普通に食堂に入ってごはんを食べていた。スナックの売り子たちのなかには個性的なタナカを塗っている女の子もいた(写真)。
昼近くから気温が上がり、前の晩の寝不足もあり、エアコンなしのバスはきつかった。パアンにやってくる観光客が少ないのであろうか、バスがパアン入境地点で停車し、警官が車内に上がって乗客を一覧し、唯一の外国人と見えた私のIDを要求し、しばしパスポートをチェックした。今回の視察でパスポートを要求されたのはこの1カ所のみで、乗客全員の視線が自分に集まったのを感じた。そういえば、道中、隣に座っていた若い僧が、「Areyou visiting friends in Hpa-an?」と立派な英語(しゃべれるとは思っていなかったので無駄な会話を控えていたのだが)で聞いてきたので、「Justvisiting」と答えたら「ふーん」というような表情で怪訝そうな顔をしていた。
13時半ごろ、『地球の歩き方』にはパアンの説明がなく地図もないので、どこで降りるのかわからないまま市内に到着。大半の乗客が降りたあと、車掌が「どこで降りるのか」という趣旨の片言の英語で聞いてきたので、「Market」と答えると、まさにマーケット近くで降ろしてくれた(写真)。そこに待機していたバイクタクシーの運転手に、「Guesthouse」と依頼したところ、至近距離にあるSoeBrothers Guesthouseに案内された(写真)。いくつか部屋を見せてもらい、エアコンの効いたキングサイズベッドのある2階の20ドルの部屋に投宿。前の晩のマンダレーからの夜行バスを含め、20時間近くバスに乗り続け、寝不足もあり、クタクタだった。
それでも、早めにパアン市内を見ておこうと思い、先ほどのバイクタクシーのおじさんと1時間後待ち合わせし、午後2時間ほどツアーを頼んだ(料金5000チャットと主要都市より安め)。パアンは市内を横切るの海抜1000級のズエガビン・ヒルZwegabinHillが印象的でその頂上には黄金色のパゴダが建つ(写真)。あそこまで登るのはさぞや苦行であろうと思う。そのふもとにあるKyaukKa Latという僧院にはおびただしい数の仏像が整然と並んでいる(写真)。1985年に建造されたと入場門には書いてあるので、歴史の重みはないが、聖なる山のふもとで修行をするという地元の人々の信仰心が伝わる。
パアンは人口5~10万程度か。シャン州北部の奥を源流とするサルウィン(タンルウィン)川がパアン市中心部の西側を南北に流れ、モーラミャインでモッタマ湾に注ぐ。パアン空港、パアン大学、スポーツスタジアムなどの充実したインフラは英領時代からの名残か。問題は経済閉鎖時代に怠ったメンテナンスを回復してどう再利用するかだ。最盛期のインフラの荒廃した様子は、カレン族武装勢力との関係で中央政府によるインフラ整備の優先度が低かったせいかもしれない。ミヤワディのタイ国境が一時閉鎖(最近は2010年7月~2011年12月)されたり、ドーナー山脈の難路による物理的制約もあるなど、タイ方面からの物流がまだスムーズでないことから、本来あるべき姿と比べて活気が削がれているのだと思う。それでもタートン方向へ新築の家屋が多く、Hotel Zwekabinというコテージ風のリゾートホテルが完成したばかりで、道路も整備中の箇所が多く、観光でやっていこうという活気はそれなりにあった印象だ。
さて、ここまで訪問した地方都市で飲めなかった生ビールが、ここパアンではレストランのどこでも飲めるようで驚いた。Shwe Myint Mo Restaurant(写真)で飲んだBaron’s Strong Brew (アルコール8.8度)の生ビールはコクがあって今回のミャンマー滞在中で最もうまいビールだと思った。ミャワディ国境から輸入されているタイ産の缶ビールも目立つ(写真)が、生ビール文化は英領時代の名残だろうと想像する。外国人観光客が少ないのであろうか、街の人々は筆者がカメラを向けると明るく笑ってくれた(写真)。
もう1軒、ビールが飲めるLucky Restaurantで英語が通じるオーナーの奥さんとおしゃべりしたところによると、パアンにはタイ人観光客は見かけないという。Soe Brothers Guesthouseの兄弟の1人とおしゃべりしたところでも、タイ人や日本人の観光客はまだ少なく、欧米バックパッカーが客層の中心だという。英語ができる彼はそうしたバックパッカーの観光需要に応えてツアー案内に忙しく、宿泊客の細かいニーズはインド系スタッフに任せている様子だった。夜、蚊に悩まされるのではないかと怖れたが、幸い大丈夫だった。自家発電を常時起動していたのであろうか、滞在時間中は夜間も含めてエアコンをつけっ放しでも動いていた。