ヤンゴン |
2012年3月15日~4月2日、バンコクを経由してミャンマーを視察した。例年、日本で花粉が飛散する季節になるたびに症状が悪化しており、なるべく春のこの時期は日本を脱出するようにしている。このときは、ミャンマーが民主化改革路線に舵を切ったばかりの頃で、外国人ビジネスマンの出張ラッシュが始まる前にミャンマーを見ておこうと考え、出かけた。
3月15日の午前、バンコク・エアーでバンコクからヤンゴンへ飛んだ。飛行時間は80分ほど。ミャンマー時間はタイ時間より30分遅れている。バンコクの旅行代理店で予約していたSedona Hotelに3泊した。このときはまだホテル代が高騰する前で、1泊80ドルだった。現在なら300ドルはするのではないか。ビジネス客の急激なホテル需要増加に供給がしばらく追いつけないため、既存のホテルは強気の値付けに出ているためだ。セドナはヤンゴンでは最上級ホテルの1つだが、バンコクならこのクラスのホテルはたくさんあるので、設備の古さなどを考えれば4つ星程度ではないだろうか。
まずは市街へタクシーで出かける。ホテルは市街中心部から5kmほど離れたインヤー湖の東側に立地し、設備と環境はいいが立地はあまり便利ではない。2005年に初めてヤンゴンを訪れたときもそうだったが、ミャンマーのタクシーはほとんどがエアコンの壊れたトヨタカローラの超中古だ(写真)。
メーターはないか、あったとしても外国人には使わないので、乗る前に交渉しなければならない。幸い、ヤンゴンではたいていの人が英語での基本的コミュニケーションに問題ない。エアコンなしで確か4ドルほどかかったか(支払いは現地通貨のチャット)。エアコン付きのタクシーは料金が割り増しとなる。ミャンマー人客に比べてふっかけていると思うが、「ふっかけ度」が他の国、とくにインドなどよりははるかにおとなしい。軍政下で中古車の輸入が軍幹部など特権階級に限られ、一般人にとって自動車所有コストが非常に高かった。そのため、走っているタクシーは20~30年前に輸入されたトヨタで、日本では骨董価値がありそうだ。おかげで他の東南アジアの大都市と比べればヤンゴンの交通渋滞はさほどでもない。しかし、ここ2年ほどで中古車輸入の規制が緩和され、現在では比較的新しい中古車が急増し、エアコン付きタクシーも珍しくなくなった。また渋滞も激しくなっているようだ。とくにダウンタウンのスーレー・パヤー近くは朝夕にバスが入り乱れてラッシュとなる(写真)。バスも骨董価値がありそうな超中古のものが多い。
スーレー・パヤーのロータリーから西側に南北に走る通りが何本もあり、インド人街、中国人街と順番に並んでいて、それぞれ特徴がはっきり分かれている。インド人街にはヒンズー寺院に加えてモスクがたくさんあり、英領時代にミャンマー(ビルマ)へ流れてきたインド人の多くはムスリムであったことがわかる。市街中心部にある英領時代からある古いボージョーアウンサン(アウンサン将軍)・マーケット(旧通称スコット・マーケット)は賑やかで、宝石専門店や巻きスカート(男性用はロンジー、女性用はタメイン)専門店がひしめく。また屋外の路地はミルクティーで一服する庶民で一杯だ。このマーケットを1人でウロウロしていると、日本へ留学したことがあるという日本語が達者な地元の青年につかまった。押し付けガイドではあったが、そんなに悪人ではなさそうだと判断し、1時間ほど市内散策に案内してもらい、最後は中国人街の19番通り(通称BBQ通り)で串焼きの夕食をしながらいろいろ話をきかせてもらった。会話の端々からお国の経済環境が変化しつつあることによる生活向上への熱気が感じられた。
ところで、ミャンマーでの旅は、主要都市の高級ホテルはネット予約が可能だが、中級以下の宿泊施設や国内移動の航空便やバス便などは現地に着いてから確認しつつ調達するのが一番だ。市街でひときわ目立つ高層ビルであり、日系企業も多数入居しているサクラ・タワーに立ち寄り、Sai Travelという旅行店に入った。そこで翌日の市内と郊外視察のためにガイドと専用車(合わせて1日150ドル)をアレンジしてもらい、さらにバガン行きの航空券とバガンの宿泊ホテルを予約してもらった。
翌3月16日、ガイド付きレンタカー(エアコン付き)で出発。今回のミャンマー旅程は最初の数日はかなり贅沢をしたが、後ほど節約旅となっていく。まずはインヤー湖公園に隣接するヤンゴン大学キャンパスを訪問した。日本ではあまり知られていないが、中国における天安門事件に相当する学生弾圧が、ミャンマーでは1988年にここヤンゴン大学で起こった。正門近くにある集会ホールは1988年8月8日(8888)に始まった反軍政学生デモへの弾圧によって建物の外壁が焼け焦げた色になっているが、「Spirit of 8888」として当時の出来事を覚えておくために、新しく塗り替えないようにしているのだという(写真)。
その弾圧事件以降、ミャンマーの軍事政権にとって大学生は体制を脅かす存在とみなされ、大学の新しいキャンパスはすべてヤンゴン市外へ移され、政府は遠隔教育を奨励しはじめた。自分の郷里で学びつつ、1学年のうち10日だけヤンゴン市内のキャンパスに来て試験を受ければいいというような制度になったらしい。実際、20代後半と思われる女性ガイドの話では、大学生の4分のがday studentsといって普通にキャンパスで勉強する学生で、4分の3がdistance studentsといって遠隔で勉強しているのだそうだ。彼女自身も遠隔大学出身で、英語習得については大学の世話にはならず外部の専門学校に通ったという。このように、90年代以降、軍政当局はヤンゴンの大学キャンパスの閉鎖と再開を繰り返し、学問の最高府としての機能を完全に失ったようだ。そのツケが現在の経済改革期における人材不足につながってしまったのだろう。
次にヤンゴン中心部から北東へ約20km(空港から約7km)に位置するミンガラドン工業団地(90ha)を見に行った。三井物産・三井建設が開発に関与し1997年に開業した工業団地だが、政治情勢の困難もあり、入居が進まず、2006年に三井物産が撤退し、その後シンガポール資本が経営を引き継いだという。2010年までは入居率25%という状態が長い間続いていたが、2011年以降に予約が入り始め、現在は満杯だという。筆者が訪問して敷地を一周したときの印象では、その大半が未整地、整地中、もしくは建屋の建設中であったりして、工場が林立という状態からは程遠かった。敷地内の道路はすでに傷んでいるところが多く、補修が必要に見えた。これまで長く開店休業状態であった様子が想像できる。建屋が完成して操業中もしくは操業目前の工場を見かけたなかでは、地場系ガーメント工場が数社、 日系縫製業のHoneys、ガラス、茶葉、インスタント緬(Yum Yum)などの工場があった。
同工業団地と国際空港の中間あたりに地元の縫製業やプラスチック廃棄物リサイクルの家内工業が並ぶ地域がある。レンタカーの運転手の知り合いが、Forwardという社名のリサイクル工場を経営しているというので、見学させてもらった。作業員50人程度。中国から輸入(?)した廃棄物を、選別→洗浄→破砕→さらにリサイクル可能部分を選別→乾燥→パッキング→中間加工メーカーへ仕向け、といった工程のようだ。明らかな3K職場で顔に「タナカ」を塗った女性作業員が黙々と仕事をしている(写真)。これから雇用創出力のある製造業が多数進出してくればこうした職場も減っていくのであろうと想像する。
午後は日本が官民で開発に関わっているティラワ地区を見に行く。ヤンゴン中心部からティラワまで約20km。パゴ川に架かる、1993年に中国の無償援助で建設されたThanlyin橋を渡る。鉄道と道路共用の橋だが鉄道の他は上下1車線だけしかなく、大型車両の走行には適さない。そこで2007年末にこの橋とは別にミャンマーが自力で6車線の「ダゴン橋」を建設した。こちらは立派だが、ティラワ港からこの橋までの10kmほどの道路状況が悪く、全面補修する必要があると思った。ティラワ港に近づくと、コンテナヤードへは丸太を積んだトラックがずらっと並んでいた(写真)。東南アジアではまだ多少は自然林が残るミャンマーだが、こうして資源が文字通り「切り売り」されている。
ティラワ港の規模は印象としてはベトナムのダナン港程度で、ガントリークレーンが2基だけ見えた。ヤンゴンから同港まで鉄道も通っており、現役で操業しているのを目撃した。ティラワ港周辺にティラワSEZを開発中だが、視察時はまだ一部のみ整地中であった(写真)。
翌3月17日はヤンゴンの市内観光をした。ホテルからタクシーでまず国立博物館へ行った。中が広く展示物は充実していたが、暑さのため朦朧とし、じっくり鑑賞する余裕はなかった。マンダレー王宮の立派なレプリカが展示してあった以外はよく覚えていない。東南アジアは3月下旬から4月にかけて猛暑となるが、ヤンゴンはバンコク以上に暑い気がする。
次にミャンマー人にとっての聖地であるシュウェダゴン・パヤーへ行った。「シュウェ」が黄金、「ダゴン」はヤンゴンの旧名なので、「黄金に輝くヤンゴンの仏塔」という意味だ。南参道口で拝観料5ドルを払い、エレベータで上り、境内へ出ようとしたところで、ガイド青年につかまった。暑くて朦朧としていたので、ガイド料5ドルを払って1時間ほど境内を案内してもらった。仏足石とか学生運動の記念碑とかを説明してもらったがあとはよく覚えていない。ガイド青年に生年月日を伝えたら、何やら早見表を取り出し、筆者は木曜日生まれで鼠の曜日だという。彼に促されるまま、鼠の像のある祭壇で柄杓で像に水をかけ、家族の健康を祈願した。ミャンマーのすべての寺院では必ず裸足になって境内に入らなければならないのだが、大理石の床が太陽光に熱せられて足の裏が焼けそうだった。軟弱な筆者は1時間半ほどで退散したが、地元の敬虔な参拝客たちはそれぞれ熱心にお祈りをし、日陰でゆっくりしながら長い時間をこの聖地で過ごしているようだった(写真7)。ちなみにガイド青年は26歳で、大学卒業の資格があまり役に立たず、こういう即席アルバイトでつないでいるのだとか。大学入試の成績上位者は好きな学部に進むことができるが、成績中位以下の者は、当局から5学部を提示され、その中から進学先を選ぶらしい。彼の場合は成績中位以下で、望む学部に入れなかったそうだ。