雲南省国境地帯20: ディエンビエンフーその2 |
11月26日、13時半ごろ、戦場跡関連の見学に出かける。ゲストハウスのロビー近くでバイクタクシーのおじさん運転手をつかまえる。ロビーのカウンターの後ろに貼ってあるディエンビエンフーの観光地図を指さして、「この地図が欲しいので、そこに載っている広告主の1つでHim Lam Hotelという大きそうなホテルにまず行き、それから市内観光に2~3時間で、10万ドン(5ドル)でどうだ」と英語で説明し、両手を広げて1本1万ドンのつもりでオファーしたら、頷き、筆者にヘルメットを渡す。一度にいろいろ説明したので、どれだけ通じたかわからなかったが、最初にHim Lam Hotelへ向かったのは間違いなかった。午前に見たHim Lam Plazaと同じ資本が開発したリゾートホテルのようだ。運転手は「5月7日通り」(写真)を北上し、4kmほど郊外に出てから右折。その奥にリゾートっぽいホテルがあった。
フロントで市内の観光地図はないか、と英語で聞くが、フロントの男性スタッフはないという。これだけのホテルなのに「ディエンビエンフーのmapはないのか」としつこく聞くと、どうも英語が通じていないようで、近くにいたパソコンを見ている女性スタッフを指さし、彼女に聞いてくれというジェスチャー。その女性はmapというのは理解できて、パソコンでグーグルマップを検索しだした。「ちがう、ちがう、手に取って見る地図だ」とジェスチャー混じりで説明すると、今度は運転手が筆者の要望をようやく理解したようで、わかったからバイクに乗れと言うジェスチャー。この町に英語をしゃべれる人間はあまりいないようだ。商売にかかわるお金のやり取りは英語がしっかりしているが、少し複雑なことを聞くと通じない。
ともあれ、今度は「5月7日通り」を5kmほど南へ引き返し、筆者をディエンビエンフー博物館へ連れて行った。そこの土産物売り場に観光地図も売っていた。5万ドンとやや高いが、仕方ない。さっそく地図を広げ、対仏戦史の史跡と思われる箇所何カ所かに丸をつけ、運転手に、これらの場所に連れて行ってくれと言うと、英語は通じなくても、これでさすがに言いたいことは通じた。
博物館の中を見ておけばよかったのかもしれないが、時間があまりないので野外を優先する。5月7日通りを左折し、Hoang VanThai通りをしばらく走り、左折すると、Dien Bien PhuTunnelというスポット。ここは「ド・カストリーの司令部」跡といって、当時のフランス軍のディエンビエンフー基地の総司令部だ(写真)。出口の土産物屋にはボー・グエン・ザップ将軍の伝記ものを売っていた(写真)。
そこを出て、次に、朝見た旧ムオンタイン橋を渡り、5月7日通りへ戻って右折して南へ300mほど走った左手(東側)にあるA1 Hillへ入った。なかなか広い敷地で、まず丘の下の奥にある戦車や重火器類の展示場を見る。フランス軍が使用していた戦車(意外に小さい)やベトナム軍が使用していた迫撃砲などを展示している(写真)。ハノイやホーチミンの戦争博物館で見る戦車などは対米戦ののもので、ここで対仏戦のものが見られるのは貴重だ。
丘に登ると、「A1」と表示がある。丘のあちこちにフランス軍が造ったと思われる塹壕が走っている(写真)。丘の中間あたりには、ベトミン軍が使用した960kgの爆弾の跡が大きなクレーターになって残っている(写真)。丘の上からは、Hoang VanThai通りを挟んで、戦没英雄の墓地が見える。この丘がディエンビエンフー戦跡の代表的なもののようだ。
そのあと、C2 Hillというところへ行くと、藪道の中に記念碑が1つ建っているだけで、手足を蚊に10か所ほど刺され、苦痛だけが残った。さらにその後、また北方向へ2kmほど走ってHim Lam Hillというところに行ったが、普通の民家の裏に、爆撃の跡であろうが、壊れたレンガ造りの家屋のかけらが残っているだけ。この時点で15時半ごろ。午前食事を1回軽く食べただけだったので、急に空腹になる。観光地図をみると、ほかにもDやEのついた丘があるようだが、A1で十分雰囲気を味わったので、ツアーを切り上げた。
前の晩と同じ軽食屋でビアハノイと卵ごはん(文字通りご飯の山盛りにオムレツが乗っているだけ、4万ドン)を注文。バスターミナルをひっきりなしに出入りする長距離バス、客の争奪戦を繰り広げるバイクタクシーたち、食堂に出入りする行商人などを眺めていた。このスポットは生活感あふれるシーンが見られ、ずっと座っていても飽きない(写真)。
すると、バスターミナルの方向からIさんがこちらへ歩いてくる。手を振るとむこうもオオッという感じ。Iさんは他のホテルへ移動したものと思っていたら、同じゲストハウスでお湯が出る5階の部屋に移動したという。ウドムサイの2泊は体調が悪くてシャワーを浴びなかったので前の晩はどうしても温水シャワーが必要だったとのこと。Iさんも結局、翌日朝、筆者と同じバスでサパまで行き、ラオカイからハノイへ夜行列車に乗り、そこからフエに行き、東西回廊沿いにムクダハン行きの国際バスに乗る計画に切り替えたという。サパ行きも難路だそうだが、ラオス方面へ「戻るも地獄」なので、「行く地獄」を選んだ?ということらしい。ということでご一緒の道中はあと1日続く。
18時ごろ、筆者は寒くならないうちに水シャワーを浴びたいので、食堂にIさんを残して失礼し、先に部屋へ戻った。まだ腸がゆるいので、その後の食事は抜いた。